無事・成功裏に開かれたカトマンズ会議
第22回国際結核肺疾患予防連合−東部地区会議(IUATLD−ER)
2003年9月22日〜25日/カトマンズ


 

 政治情勢の不安のため開催が危ぶまれていたこの国際学会は,ネパール結核予防会プラダン会長のリーダーシップのもとで,2003年9月22日〜25日に無事に開催され,アジア各地からの多数の参加者を得て成功裏に終わった。会場はカトマンズ市内のヤク&イエティ・ホテル,アジア地域の16カ国や地域から204名,地域外の6カ国から18名,ネパール国内から132名,計354名の参加があった。政治情勢の判断からか米国,英国,カナダ,オーストラリア,インドネシアなどいつも参加がある国々からの不参加が目立った。
 開会式当日の朝から卒後教育講座が日本の結核研究所による企画で行われ,午前中には「エイズと結核」,午後には「最近の結核研究の進歩」が取り上げられた。WHO南東アジア地区のナライン博士,韓国結核予防会会長の洪(ホン)博士,大阪府立羽曳野病院露口院長などをはじめ,優秀な講師陣を迎え,議論も活発で100名に及ぶ聴講者も満足顔であった。
 日本からは15名の参加があったが,以下4名の方々に報告を頂いた。



DOTS戦略の火をいかに持続させるかが課題
結核予防会顧問・ER顧問
島尾 忠男


 筆者が最近参加したIUATLDの東部地区会議(ER)は1997年のシンガポールであったので,今回は久しぶりの参加となった。理事会,評議員会に出席してまず目についたのは,最近10年間にWHOが結核対策のDOTS戦略を強力に推進し,世界各国の政府もこれに対応して結核対策を優先施策として急速に展開したために,10数年前にはもっぱらWHOや政府に対して結核問題を重視するよう発破掛けを中心に活動していたIUATLDや加盟国の予防会が,普及広報活動を行うことは当然として,新しい情勢の中でどのように活動を展開したらよいか戸惑っている姿であった。
 ネパールの予防会は,1995年に日本の予防会の協力でルンビニ・プロジェクトを始めた時には,高い治癒率を得るためのモデル事業という,国が手をつけていない有意義な事業を展開することができた。しかしながら,その後ネパール国内でもDOTSが全国的に展開され,新しい塗抹陽性肺結核患者の治療完了率が85%,患者の発見率が70%というWHOの目標を達成できた現状では,予防会として何をするべきか思い浮かばない状況であり,この点は他の国の予防会にもほぼ共通している。
アジアは育ってきている
 今回は治安の問題で,英・米・カナダからの参加が全くなかった。従来は欧米の誰かに特別講演を依頼していたが,今回は3つの総会講演の中で,喫煙問題はIUATLD本部のスラマ博士が担当したが,エイズと結核の問題はWHO南東アジア事務局のナライン博士(インド人)が,世界の結核対策戦略の歴史と展望は筆者が担当した。喫煙問題でも,アジアには香港に籍を置く世界レベルでの専門家のマッカイ博士という有力な 専門家がいるので,この問題もアジアで賄えたであろう。
 ネパールを含め,ER地域内での急速なDOTSの普及には目を見張るものがあるが,過去を知る者としては,本当にうまくいっているのかという疑問も残る。今回の学会では,この疑問に答える研究がいくつか報告され,注目された。ネパールの国立結核センターは同時にSAARC(サーク)諸国の結核センターも兼ねているが,その活動の一環として,痰の塗抹検査の観察判定成績の精度管理が,サンプル・スライドを各国の国立検査センターに送って行われた。結果は満足できる状況であった。
 また,ネパールの国立結核センターがWHO,GENETUP(ドイツのNGO)の協力を得て,無作為に抽出した新届出患者の痰について耐性検査を行い,数年前の調査に比し新届出患者では抗結核薬耐性,特に多剤耐性が増加していないことを明らかにした研究成績が報告された。DOTSが急速に全国に拡大され,今まで薬剤が全く使われていなかった地域で患者が発見されることによる影響もあるだろうが,新患者で多剤耐性の増加がないということは好ましいことである。
 UMN(ネパール合同ミッション)のアラビー博士から,パタン市内で一部地域の全戸訪問を行い,呼吸器症状の有無,結核の治療の有無などを問診した結果,地区の結核患者の発見率は50%を超えており,市内の年間結核感染率の推定値は少し高すぎるという報告があった。このような,現在行っている業務の内容を検討する研究が行われ始めていることが印象的であった。ちなみに,この研究では結核に対する偏見がいまだに強く残っていることも示されていた。
 DOTS戦略を推進する上で,最も難しい相手が開業医と教育機関であるが,これらについても積極的に国の方から接近して,成果を上げている例が報告された。
 途上国で,燎原の火のように燃えているDOTS戦略という火を,一時的なものに終わらせず,持続させるにはどのようにしたらよいか,その中でNGOは何をしたらよいのか,改めて考えさせられた今回の学会であった。
   
ERは東西二分の方向
 ERはアジア全域を含む世界で最も大きい地区で,WHOでは2つの地域に分けられている。東アジアと西側のインド亜大陸ということで,文化・経済発展もかなり異なり,WHOとの共同事業をする際も都合が悪いことが多く,10年以上前から二分するようにIUATLD 本部から促されていた。しかし西側が原理・原則を振りかざして,これに抵抗して今に至った。 
 ERでは最近戦略委員会を設置し,今後の活動のあり方を検討しているが,今回はIUATLD本部事務局長のビロ博士から再度強い分離への意向と,その際経済的な危機に直面する西側に対しては,本部が援助する旨公約し,筆者も予防会存在の意義の変化,分離後も西側に対する日本の協力の継続を発言したので,やっと近い将来(概ね2年後)の分離を前提に,具体的に検討することが理事会,評議員会で承認された。西側はほとんどすべてが高度まん延国であり,東側は中等度まん延国が多いので,分離した上で密接な交流を図るほうがより効率的である。ちなみにビロ博士の話では,IUATLDは,Stop TB Partnershipの有力なメンバーとして,多くの事業を抱え,職員数も以前の10名くらいの体制から,最近は50名くらいに拡大してきているとのことであった。
 今回,石川結核研究所副所長はERの副会長を任期満了で退任したが,今後顧問として戦略委員会に加わることが認められたので,戦略委員会の時計が逆方向に回らないことを期待したい。          
 



世界の頂点・ヒマラヤの麓で確認されたアジアの連帯
ちば県民保健予防財団(結核予防会千葉県支部) 
集団健診部診療部長 小野崎 郁史

 ヒマラヤの麓ネパールの首都カトマンズでの会議は,ネパールでの政情不安,イラク問題にSARSまで重なり延期され,今回も前々日まで3日間ゼネストがあるなどで中止の可能性もささやかれていたが,1953年に設立されたネパール結核予防会(NATA)にとっては,50周年という節目の年,なんとしても開催にこぎつけたかったに違いない。幸い平穏無事かつ盛大な会となった。250人ほどの海外からの参加者の中には,雄大なヒマラヤの眺望を楽しむべく会議からの脱出を予定していた者も多かったと推測するが,長引くモンスーンの影響で連日の雨また雨。山歩きもできないせいか,最終日のセッションまで会議場が賑わっていたのはNATAにとって天の恵みであったに違いない。
 私にとってネパールは1990年から93年までの3年間滞在し国際協力の道を踏み出した第二の故郷でもある。当時まだ“DOTS”を考えていなかった時代に,ヒマラヤの麓からサイが住むジャングル地帯の患者さんにまで,短期化学療法をいかに普及させるかという命題に必死に取り組んでいた。耐性を防ぐため合剤を使用するなどで当時としてはそれなりの成果を上げたが,全国的普及にはほど遠い状況の中で任を終えた。しかしそんなご縁もあり,千葉県支部とNATAカスキー支部が姉妹支部になったりで,ネパールの友人たちとの交流は続いており,今回の久しぶりの訪問を楽しみにしていた。
 その久々のカトマンズだが,車が増え,交通の邪魔となっていた野良牛?を見かけなくなったというくらいで街の様子にはあまり変化は感じない。ゲストハウスやレストランが増え,旅行者の溜まり場タメル地区にはカラフルな看板が増えたような印象はあるが,昨今の政情不安で金持ちツーリストが激減し,土産物屋も閑散としているのは悲しい光景である。西部山岳部を中心にマオイストと自称する共産原理主義者集団のゲリラ戦,テロが続いている。同じような思想を持ったポルポト派がたった四半世紀前に国を破壊してしまったカンボジアでネパールの後この4年ばかり働いていた私は,ネパールにおけるこの無益な争いにはいたたまれない思いがする。
 その困難な状況の中で,ネパールではDOTSが確実に浸透している。それがこの10年の一番の変化かもしれない。今回の会議のハイライトは,その成果をネパール人が自らの地で高らかに示したことだ。まだ科学的研究というには遠いが,これができたあれもできたというだけでなく,その質を振り返る調査・研究を実施する余裕が出てきたことも大きな進歩である。
 ネパールの友人たちが結核対策の成果をいかんなく示し,無事終了した会議であったが,東部地区副会長を務めた石川結核研究所副所長をはじめとする日本結核予防会の全面支援がなければ開催すらできなかっただろう。また,現地で活躍するJICAプロジェクトの専門家・ローカルスタッフの裏方としてのサポートが会議の運営を支えていたことを,改めて皆さんにお伝えしておきたい。表でなんだかんだ言うだけでなく,裏方にもなり先方を立てつつきちんとサポートするところが,日本の援助の良さであり,現地の人たちに長い友人として感謝されている所以でもある。
 カンボジアからはDOTSの地方展開の有効性を示唆する研究と,エイズの多発やスラムを抱える都市の結核問題への対応の発表がなされた。閉会式では,プラダン大会会長よりカンボジア結核予防会がまもなく誕生することがアナウンスされ,満場の拍手を浴びた。閉会式が終わった夜,“Chiba Anti-TB Association”の主催で,ネパール,カンボジア,日本の3カ国での交流を日本食で楽しんだ。地酒ロキシーに気持ちよく酔いながら,各国におけるさらなるDOTSの展開に向け,皆で気勢を上げたのだった。



DOTS戦略における看護職の役割は何か:国際ワークショップに参加して
東京都健康局医療サービス部 感染症対策課
結核係主任 荒井 和代
結核研究所対策支援部
保健看護学科科長代理 永田 容子 

 9月22日開会式に先駆けて,看護職のワークショップが開催された。この企画はジニー・ウイリアム氏(IUATLD看護局長)により行われ,ネパール(政府・民間の看護職を含む)をはじめ,インド,タイ,韓国,オーストラリアなど10カ国から30名の看護職・医師・カウンセラー・ヘルスアシスタント・行政官などの参加があった。
 まず2人1組でお互いに自己紹介をし,その後皆の前でお互いを紹介し合い,参加者同士のコミュニケーションを図ることから始まった。国も職場環境も様々であったが,皆,結核対策に関わる看護職・医療職であり,それぞれの国のことなど紹介し合った。その後ジニー氏より「DOTSにおける看護職の役割」について,世界における結核の罹患状況やDOTS拡大に向けた取り組み,その中における看護職の役割,結核患者を中心としたマネージメントの重要性についてなど,レクチャーがあった。そして,3つのグループに分かれて看護職の役割や研修について話し合い,内容はグループごとに発表し全体で共有していった。
 結核の罹患率や国の状況など,参加者の背景は様々であり,DOTSの実施形態も様々であるが,患者と関わるに際しての基本となる「結核はどんな病気か,なぜ薬が大事なのか,なぜ毎日飲まなければいけないのか」ということはどの国でも変わるものではなく,DOTSに関わる看護職の共通のマニュアルを持つことが大切であるという結論を得た。1日では時間が足らず翌23日夕方・24日夕方にも開催され,今後の看護職のネットワーク構築に向けての活動計画や,Eメールを活用しての成功例の共有化,調査研究について話し合いが持たれた。今後の活動として,10月にパリで開催されるIUATLD世界会議において,看護職として調査研究の報告をすることや,DOTS戦略において看護職の貢献できることについて確認し,ワークショップは終了した。ネットワーク構築には,まず人と人が顔を合わせお互いが分かり合うことから始めることが大切である,ということを教えられたと思う。国は違っても同じ結核患者をケアする看護職として,看護の基本は同じであるということを再認識し,他国の取り組み状況を知るなど,今回ワークショップにて学んだことは大きかった。
 開会式において,IUATLD本部事務局長のビロ博士は,DOTS戦略における看護職の役割の重要性について触れられており,今後このような看護職の取り組みの発展が必要であると感じた。




   2005年はパキスタンのラホールで開催
 次回ER会議は2005年2月にラホールで開催されることが,閉会式に新会長のナワズ氏から伝えられた。東西に分かれる予定のため,ER最後の会議になると思われる。  (編集責任 結核研究所副所長 石川 信克)


updated 04/03/17