Rawalpindiの新しい風

〜パキスタンの結核対策が動き出した〜

JICAパキスタン事務所保健企画調査員
結核研究所 嘱託 稲葉恵子


パキスタンとは?
 突然ですが、この"複十字"誌をお読みの皆さんは,パキスタンについて,どれくらいのことをご存知でしょうか。イスラム教,軍事政権,核実験,上野公園にたむろする出稼ぎ労働者,オーバーステイなど,あま り良いイメージはないに違いありません。先日,軍事政権の陰の実力者だったムシヤラフ氏が,一方的に大統領になることを宣言して国会を停止,名実ともに軍事独裁政権となりました。登山をなさる方なら,K- 2など,この国の北部に連なる美しい山をご存知でしょう。パキスタンは,正式名をパキスタン・イスラム共和国といい,1948年に英領インドから独立,71年には当時の東パキスタンがバングラデシュとして再分離 独立,今日の形態に至っています。

予期していなかった赴任
 私は2000年10月に,結核研究所からここパキスタン・イスラム共和国の首都イスラマバードにあるJICAパキスタン事務所の保健分野企画調査員として派遣されました。主な仕事は,この国の保健分野に関わる調査 一般,及び無償資金援助を含めた案件形成です。実はパキスタンは世界第6位の結核まん延国で,結核研究所から私が派遣された事情の一つには,この国における早期の結核プロジェクト形成という大役もありまし た。結核研究所では2年間の国内研修の後,国際協力部から海外のプロジェクトに派遣,とのお話でしたので,2000年の中間レベル結核対策グループトレーニングコース(40年近い実績をもつ,JICA,WHOとの連 携を得て行われている途上国の結核対策人材育成コース)に入れていただいていました。そのコースの中で, 現在WHO東地中海地域事務所(EMPO)の結核担当官を務める清田明宏先生が,パキスタンが属する東地中 海地域の結核対策のお誘をして下さいました。この地域では結核対策は着実に進んでいるが,パキスタンでは国家結核対策の遅れもあって,この地域の結核患者の実に44%が存在する,とのことでした。清田先生は 非常に優秀な先生で,実にまめに現場に足を運ばれ,その国の結核担当官を親身になってお世話して下さる方です。その頃はパキスタンに行くなど夢にも思わず,あの清田先生がてこずるなんてその原因はどこにある のだろう,などと漠然と考えていました。
 さて,そのコース終了式の日,当時WHOStopTBの最高責任者だった古知新先生(現,HIV/AIDS部門 最高責任者)が終了式に出席下さり,式後のパーティでコース参加者と親しくお語下さり,その興奮もさめ やらない夕方,研究所石川信克副所長からお呼びがかかり,なんと「パキスタンに行かないか」とのお話ではありませんか。それもできるだけすぐに,6ヵ月間。まさに青天の霹靂,棚からぼた餅。といいますのも, 現在結核予防会が海外で行っている長期プロジェクトといえば,ネパール,フィリピン,イエメン,タイ, カンボジアであり,その中の一つに派遣されることが最も考えられ得る可能性だったからです。

ラワルピンディでの日々
 というわけでパキスタン。というわけでイスラマバード。そしてラワルピンデイは,イスラマバードから車で20分程度の距離にあり,現在ではイスラマバードのベッドタウンとなっています。人口100万程度。こ こに築60年の国立結核センターがあり,私や清田先生のカウンターパートであり,結核研究所のコース卒業生でもあるカラム・シャー氏(国家担当官,'89年コース卒業),サディーク医師(副担当官,'95年同),ア リフ医師('98年同)がいます。
 私がこの国に着いた2000年10月当時,この国の結核をなんとかしなければならないということで,世界銀行がWHOと合同のミッションを組み,ドナーに協力を要請した直後でした。国家結核対策事務所(NTP) の3人は,日本のコースにも出ており基本的には親日家なのですが,カラム・シャー氏がバロチスタン州から抜擢されてから日が浅く,前任者の「専門家はいらない,自分たちでできる」という姿勢を継承しており,私や 短期専門家でイエメンのリーダーをされたことのあるレシャード先生(アフガニスタン生まれの日本人)に対して,硬い態度をとっていました。またNTPは非常に小さく医師は3人だけで,うちアリフ医師は結核セ ンターの臨床部門に属しており,その組織は予防接種計画プログラムに比べてどうしても見劣りし,これで大丈夫なのかと不安に思いました。しかし清田先生からの「カラム・シャーさんを大切にしてやってくれ」 という指令がありますので,週に何度もラワルピンディに通いました。併せてトレーニングが始まったばかりのシンド州国境沿いの村まで,(JICAの規定により)州警察の護衛をつけて出かけました。

結核研究所移動セミナー開催
 こうして信頼関係回復を図りつつある時に,結核研究所から移動セミナーの予算をいただきました。当時パキスタンNTPでは,清田先生の助言もあって初めての世界結核デー(3月24日)キャンペーンを準備し ていました。そこで結核デーの後,2日間続けて当地の日本大使館,JICAと共催で移動セミナーを開催しました。WHO地域事務所から清田先生もかけつけて下さいました。結核デーには現在のムシャラフ大統領 からコメントをいただき,結核対策が国家の緊急の課題であることが盛り込まれた「イスラマバード宣言」が出されました。また,ドナーが次々に協力を表明したため,パキスタン保健省が中心となってドナー会議 が召集されました。
 移動セミナーの開会式には当地の日本大使館からご挨拶をいただき,日本から来ていた無償資金援助の案件形成のためのミッションも参加して下さいました。参加者は結核研究所コース卒業生と各州の結核対策担 当者,及び既にDOTSを始めている(カバー率はやっと22%)郡の担当者,ほか結核関係のNGO代表者,総勢23名。私がけちったので交通費・宿泊費は支払ったものの,皆日当なしで参加してくれました。結核研究 所国際協力部長の下内先生が,ネパール,イエメン,フィリピン,ソロモンなどの事例を,レシャード先生がアフガニスタンの結核の現状を,私が赴任して以来,観察してきたパキスタン結核対策の問題点を説明しま した。その後各州の代表者が自分たちの経験を発表し,経験を共有し,問題点とその解決について互いに活発な議論が繰り広げられ,盛況のうちに幕を閉じました。

そして新たなる対策の始まり
 無償資金援助からも結核プロジェクトのためのお約束をいただき,その他,ドナーも協力(イギリスDFIDはパブリック・プライベートパートナーシップを,イタリアは検査室設立を,ドイツGTZは日本に似た プロジェクトを)を表明しているにもかかわらず,日本に対するパキスタン側の期待は大きなものがあります(実は現在核実験による経済制裁で,無償援助の大半が保健分野に向けられているため)。パキスタン側 も結核対策に意欲的で,2名の医師を含めて10名のNTP人員増を認めました。こうしたNTPの成果は,WHO,世銀などに認められつつあります。
 現在私は,さらに6ヵ月間の任期延長をいただいて,実際の結核プロジェクトの青写真作成にかかっています。今年10月の地方分権後は数年間混乱が続き,その後郡レベルの責任と決裁が非常に大きくなってくると 予想されます。日本でも保健所は結核対策ばかりでなくその他の伝染病,予防接種,妊産婦及び新生児・乳幼児検診,飲料水や食物の安全など多くの責任がありますが,途上国でも事情は同じで家族計画のために養 成されたスタッフが,予防接種もすればDOTSにも当たる。地方分権後の構造変化と末端レベルで事情を考えて,JICAパキスタン事務所では結核を中心とした感染症対策プロジェクトを考えています。プロジェク ト対象地域は,過去のパキスタンでの医療プロジェクトの反省も踏まえて,1カ所だけでなく複数の地域を考えています。
 '70年代に日本のプロジェクトの入っていたアフガニスタンから日本のコースに留学,その後内戦のため難民としてペシャワールに滞在している医師らによって作られたNGOを,結核プロジェクト形成のための コンサルタントとして契約することもほぼ成功しました。これによって,民族性の違いにより州ごとに垣根のあったパキスタン側も,結核対策に経験豊富なより多くの人材を活用することができるようになりました。
 どうでしょう,パキスタンの結核対策に新しい風が吹いていると思いませんか?この風は強いけれども不快でなく,かえって心地よく,かつ勢いある風です。こんな風が日本にも吹くことを願っています。そして 日本から私たちの活動を支えて下さっている皆さんに,この場をお借りして深く感謝申し上げます。


up dated 01/10/22